財政再建と公衆衛生の両立を目指すハームリダクション
2025年04月15日
沖本 竜義
慶應義塾大学経済学部
2025年3月31日25年度政府予算案が国会で承認された。参院での修正を経て予算が成立したのは現憲法下で初めてのことであり、衆院でも修正が行われことも考えると、政府与党の苦労がうかがえる。歳出削減の努力は垣間見られるものの、大きな改善は見られず、財政健全化は程遠い状態である。財政の健全化を図る方法としては、増税や社会保障費の削減など考えられるが、いずれも国民の痛みを伴うものであり、高額療養費制度の見直しが見送られたことも示すように、実行は容易なものではない。これらの課題に対処するためには、従来型の支出増加型政策ではなく、予防的な視点からの制度再設計が不可欠である。それを受けて、ハームリダクションというアプローチが、社会保障費の抑制に寄与する新たな可能性として注目されている。本稿では、政府予算案に基づく現状分析、社会保障費増大の要因と予防政策の重要性、そしてハームリダクションによる財政再建と公衆衛生の両立の可能性について議論する。
政府予算の概要と社会保障費の現状
2025年度の政府予算を図に表したものが図表1である。それによれば、一般会計の歳出総額は115.2兆円と昨年度当初予算の112.6兆円からわずかに増加している。国債費や地方交付税交付金が1兆円以上増加するとともに、防衛費と社会保障費も増加する一方、税収も昨年度当初予算の69.8兆円から78.4兆円へと増加している。その結果、新規国債発行額は28.2兆円と17年ぶりに30兆円を下回ったものの、昨今の金利の上昇を受けて、利払費は8.2兆円から10.5兆円へ増大している。今後さらなる金利の上昇も予想され、財政の改善は今後も大きな課題である。
また、歳出の細目を見てみると、社会保障関係費が38兆2833億円を占めており、これは歳出全体の33.2%、一般歳出全体の56.1%に相当するため、防衛、公共事業、教育など他分野の予算を圧迫し、財政改善の足かせになっていることがわかる。実際、一般会計歳出の主要経費の推移を図示した図2を見てみると、社会保障費と国債費が他の項目と比較して、過去30年間で大きく増加していることがわかり、社会保障費の上昇が国債費の上昇をもたらし、政府の財政健全化を阻む主因となっていることが示唆される。下で確認するように、この増加の背景には、高齢化の進行や生活習慣病の増加などが挙げられる。特に、がんや心疾患といった疾患に関連する医療費の増加は顕著であり、将来の社会保障制度の持続可能性に深刻な懸念を与えている。社会保障制度を「聖域」として扱うことはもはや困難であり、財政再建のためには、社会保障費の抑制と制度の再構築を同時に進める必要があるであろう。
社会保障費増加の背景と予防政策の必要性
社会保障費の増加は一過性のものではなく、複数の構造的要因によって支えられている。最大の要因は高齢化の進行である。図3は、それを確認するために、日本の人口の推移を図示したものであるが、1995年以降15-64歳人口割合が低下している一方で、65歳以上人口割合は上昇の一途をたどっており、2025年時点では65歳以上の高齢者人口は3600万人、総人口の30%を占める水準となっている。それを受けて、年金の給付、医療・介護需要の高まりは自然な帰結であり、これに伴い関連費用も急増している。
また、生活習慣病の広がりも医療費増大の一因である。図4は厚生労働省の「2022年度国民医療費の概況」から性別にみた傷病分類別医科診療医療費構成割合を図示したものであるが、医療費のうち、循環器系の疾患が18.2%、新生物<腫瘍>が14.7%を占め、上位二つの項目となっている。循環器系の主な疾患は高血圧性疾患、心疾患、脳血管疾患であり、新生物は様々ながんである。これらの疾患は、食生活や運動習慣、休養、喫煙、飲酒などの生活習慣が原因で発症する生活習慣病の代表的なものであり、喫煙、飲酒、運動不足、食生活の乱れといった行動要因が改善されない限り、今後も医療費の圧迫要因となることが予想される。
さらに、日本の医療制度が「治療」に重点を置き、「予防」に対するインセンティブが乏しい構造となっている点も問題である。慢性疾患が重症化する前の段階で介入する仕組みが弱く、結果として長期入院や高額治療が常態化している。このような現状を打開するには、予防医療の拡充と行動変容を促す政策的支援が不可欠である。
ハームリダクション政策と社会保障費抑制の可能性
ハームリダクションとは、リスクの高い行動(喫煙、薬物使用など)を完全に禁止・根絶するのではなく、害を可能な限り減らすことを目的とした政策的アプローチである。元来は薬物依存症対策から発展した考え方であり、例えば、カナダやヨーロッパ、オーストラリアでは、合法的な薬物注射施設が設置され、感染症の予防や過剰摂取による死亡率の低下に寄与したことが指摘されている。
ハームリダクションはたばこ対策にも応用されており、イギリスやニュージーランドでは、紙巻きたばこから加熱式たばこや電子たばこへの移行を、健康リスク低減の観点から公衆衛生政策として支援している。例えば、イギリスの公衆衛生庁であるPublic Health Englandは、電子たばこや加熱式たばこが紙巻きたばこに比べて95%害が少ないと考えられることを公表し、禁煙政策の一環として位置付けている。また、ニュージーランドでは「スモークフリー2025」政策の一環として、紙巻きたばこの若者への販売を段階的に制限し、より害の少ない代替品の利用を促進している。これらの政策は、禁煙が困難な層に対して現実的かつ柔軟な選択肢を提供するものであり、結果的に喫煙関連疾患の発症を抑制し、医療費の削減にも寄与することが期待されている。
日本においても、喫煙は依然として大きな健康リスク要因であり、がん・心筋梗塞・慢性閉塞性肺疾患などの主因とされている。そのため、紙巻きたばこから加熱式たばこへの移行を促進することは、完全な禁煙が困難な層に対するハームリダクションの手段として有効であると期待される。もちろん、加熱式たばこに関する健康リスクが完全に明らかになっているわけではなく、慎重な検証が求められるが、たばこ政策におけるハームリダクションは、財政再建と公衆衛生の両立を目指す上で、有効な手段となりうることを認識すべきであろう。そのうえで、ハームリダクションを念頭に健康増進法の見直しや健康リスクに応じた相対的課税などを議論してもよい時期だと思われる。喫煙政策を通じた社会保障費の予防的削減というハームリダクションの視点は、政策決定者にとっても今後無視できない論点となるだろう。